世界の記憶へ~ハンセン病元患者の思い~

ハンセン病の元患者の人権侵害の歴史を後世に伝えていくために。
番組では、毎週火曜日、瀬戸内市・長島にある2つの療養所の出来事などを綴った手記を「朗読」でお伝えしています。朗読した作品を掲載します。
(写真提供:長島愛生園・邑久光明園)

#26 『待つ心』~生かされて生きて より~ 高杉美智子

#26

『待つ心』~生かされて生きて より~ 高杉美智子

[長島愛生園] ハンセン病を発病した母親、 ある日、幼い息子が友だちから受けた仕打ちを目の当たりにします。

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#25 『別れのうた』~わがいのち わがうた―絶望から感謝へ より~ 玉木愛子

#25

『別れのうた』~わがいのち わがうた―絶望から感謝へ より~ 玉木愛子

[長島愛生園] 療養所に収容される日の前夜など、故郷での家族との時間を、のちに回想しています。自ら詩を作ったお別れのうたを皆で唄いました。

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#24 『盲杖(もうじょう)日記』 藤本とし

#24

『盲杖(もうじょう)日記』 藤本とし

[邑久光明園] 療養所にテレビが導入された間もない時代、目が不自由で触れたことがなかった女性は、ある日、個人でテレビを入れたという友人の寮を訪ねます。

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#23 『点字製版機』 三上久

#23

『点字製版機』 三上久

[邑久光明園] 発病、そして失明、どん底だった男性。点字を学び機関誌の発刊に携わる中で、生きる喜びを知り、前向きになっていきます。

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#22 『ハーミニカの歌』より 近藤宏一

#22

『ハーミニカの歌』より 近藤宏一

[長島愛生園] 21回目でお伝えしたハーモニカバンド・青い鳥楽団。点字に打ち直された楽譜をわずかに感覚が残る唇や舌をつかう「舌読(ぜつどく)」によってたどり、演奏する曲を数百曲まで増やしたといいます。その点字習得の過程です。

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#21 『ハーモニカの歌』より 近藤宏一

#21

『ハーモニカの歌』より 近藤宏一

[長島愛生園] 昭和28年、目に障害のある入所者仲間でハーモニカバンド「青い鳥楽団」が結成されました。25年間活動をつづけ、レパートリーは数百曲にのぼりました。その活動を通して感じた人間の可能性がつづられています。

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#20 『らい予防法廃止墓前報告祭 祭文』池内謙次郎

#20

『らい予防法廃止墓前報告祭 祭文』 池内謙次郎

[長島愛生園] らい予防法による国の隔離政策は、平成に入ってからも続けられ、平成8年、ようやく廃止となりました。この入所者の悲願を当時の自治会長が墓前に報告しました。

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#19 『たたかいの果実』~全患協斗争史より~ 森田竹次

#19

『たたかいの果実』~全患協斗争史より~ 森田竹次

[長島愛生園] 昭和26年、患者の全国組織が作られ、隔離政策の根拠となった「らい予防法」の改正や入所者の生活向上などを求めつづけてきました。

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#18 『生かされて ―外島から長島へ―』(救援から開園へ) 植田一男

#18

『生かされて ―外島から長島へ―』(救援から開園へ) 植田一男

[邑久光明園] 17回目でお伝えした外島保養院時代の室戸台風、その後編です。施設が壊滅したため、生存者たちは全国各地の療養所へ救出されていきます。その後、邑久光明園が開園するのです。

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#17 『生かされて ―外島から長島へ―』(室戸台風) 植田一男

#17

『生かされて ―外島から長島へ―』(室戸台風) 植田一男

[邑久光明園] 邑久光明園は、大阪にあった外島(そとじま)保養院が、昭和9年の室戸台風で壊滅し、移転して瀬戸内市の長島に開園したという歴史があります。今回は外島保養院時代、入所者などおよそ190人が犠牲となった台風の日の記憶です。

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#16 『いのちのうた』 中山秋夫 ~中山秋夫詩集 囲みの中の歳月 より~

#16

『いのちのうた』 中山秋夫 ~中山秋夫詩集 囲みの中の歳月 より~

[邑久光明園] 一編の詩。元患者への中絶手術が繰り返された療養所。光明園の霊安棟には、かつて、国が研究の名目で保管した、標本とされた胎児や新生児、49体が収められていました。

『血統の終止符ピリオド』 千島染太郎 ~「詩集・光の杖」より~

[邑久光明園] 断種手術の際の気持ちがつづられた詩もあわせてご紹介します。

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#15 『一人の女』 グ・ナムスン

#15

『一人の女』 グ・ナムスン

[邑久光明園] 韓国人女性が昭和30年代に書いた手記。当時、病気が回復しても社会に戻るのは難しく、残された道は、島を永住の地と決め、結婚生活に入ることだったといいます。

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#14 『いつの日にか帰らん~ハンセン病から日本を見る~』より 加賀田一

#14

『いつの日にか帰らん~ハンセン病から日本を見る~』より 加賀田一

[長島愛生園] 療養所内で結婚したものの“断種”を余儀なくされた夫婦。六畳の部屋に夫婦二組という環境での新婚生活でした。

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#13 『たたかいの記録』より 吉成稔

#13

『たたかいの記録』より 吉成稔

[長島愛生園] 療養所では、入所者同士の結婚が認められていました。しかし、ささやかな幸せの先に、子供を持つことが許されないという現実が待ちうけていました。

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#12『詩集 仮名の碑 元ハンセン病患者の詩とエッセイ』より

#12

『詩集 仮名の碑 元ハンセン病患者の詩とエッセイ』より 山内宅也

[邑久光明園] ハンセン病は第二次大戦後、プロミンという治療薬によって治る病となりました。しかし、身体的な後遺症などのため、世間の見方はちがったものだったそうです。

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#11『死者と共に』

#11

『死者と共に』 金地慶四郎 ~どっこい生きてるで 五十年の隔離の時を越えて より~

[邑久光明園] 元患者たちは“患者作業”という農作業や道路工事などの労働を余儀なくされていました。戦時中は栄養失調で亡くなる人も多くいたといいます。

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#10『逃走者の手記』(監房)

#10

『逃走者の手記』(監房) 野上悦郎

[長島愛生園] 9回目で紹介した逃げた青年たちは捕えられ、逃走者でいっぱいだった“監房”に入れられました。当時、制裁を課す権利は園長に与えられ、裁判はほとんど行われなかったそうです。

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#9 『逃走者の手記』(逃走)

#9

『逃走者の手記』(逃走) 野上悦郎

[長島愛生園] 島に隔離され、戦争のあと、東京にいる家族を心配していた青年。帰省を療養所に願い出ましたが認められず、たまらず逃走を試みます。

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#8 『散歩』

#8

『散歩』 小学六年 T子

[邑久光明園] 子供たちは少年寮の寮母さんのことを“お母さん”と呼んでいました。その寮母さんと歩いていると家に帰れない寂しさがこみあげてきました。

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#7 『桜貝』

#7

『桜貝』 中学三年 平美沙子

[長島愛生園] 故郷を離れ、一人島で暮らす少女の夏休みのある一日がつづられています。

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#6 『面会所~どくだみの花の咲く頃~』

#6

『面会所~どくだみの花の咲く頃~』 南龍一

[邑久光明園] 島に隔離された7歳の少年と、訪ねてきた母親のつかの間の再会が描かれています。

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#5 『日曜日の朝』

#5

『日曜日の朝』 中学一年 伊藤清子

[長島愛生園] 親と離れて島で暮らすことを強いられた子供たちの日常。中学生の手記です。

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#4 『強制収容』

#4

『強制収容』 オム・イボン

[邑久光明園] 強制的に島の療養所に収容され、生きる希望を失ったという当時の思いを 韓国生まれの男性がつづりました。

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#3

『収容所』 阿部はじめ

[長島愛生園] 当時、療養所に入るため、船で長島に渡ると、まず収容所という建物に入りました。

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#2 『今も両手に残る父の手の温もり』

#2

『今も両手に残る父の手の温もり』 かよこ

[邑久光明園] 島に隔離され、およそ50年、故郷に戻っていない女性が記憶をたどりました。

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#1 『その頃の思ひ出』

#1

『その頃の思ひ出』 尋常小5年 山本志保子 ~「望ヶ丘の子供たち(昭和16年)」より~

[長島愛生園] 国の誤った隔離政策によって、家族と引き離されることになった少女の手記です。

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