おやすみ王子

第1話 重い扉  江國香織


 

待合せたビストロの、木製の大きな扉が重く、力をこめてあけようとしたとき、梨花は自分の腕が細くてしわだらけなことに気づいた。華奢な銀の腕時計、大きな色石のはまった指輪、どちらにもまるで見憶えがない。驚きのあまり、梨花は腕をひっこめて扉から離れ、自分の身体を見おろした。黒いコートの下に、ブルーのワンピースを着ているらしい。
細くごつごつした脚は白っぽいストッキングに包まれて、いかにも老人が履くような、灰色のフラットシューズに先がすっぽり収まっている。嘘でしょ。茫然と立ちすくんだ。女友達との夕食のために今夜着てきたのは、いつものジーンズだったはずだ。梨花はいま三十二歳で独身、恋人はいないが仕事をばりばりこなし、毎日が充実している。それなのに何? なぜあたし、老女みたいな恰好?
「梨花」
うしろから名前を呼ばれ、ふり向くと祖父
くらいの年齢の男の人が立っていた。白髪、痩せがた、頬に入るたてじわ。見憶えがある、と思った。でも、誰だっただろう。
「いまついたところ?ちょうどよかった」
男の人は言い、重い扉をあけてくれた。
店のなかに、女友達の姿はなかった。案内されたテーブルに、その男の人と一緒に坐ることはなぜだかひどく自然だった。
「コウたちはまだなのかな」
男の人が言ったとき、コウというのが自分たちの息子で、妻と子供を連れて食事にくるところなのだとすんなり理解できた。のみならず、
「あの子、いつも遅れてくるんだから」
気がつくとそう言っていた。驚愕と共に思う。そうなの? あたしの息子、いつも遅れてくるの?
三十二歳の梨花には想像もつかない。ていうか、あたし孫までいるの? 一体いつのまに? 何もかも信じられない。自分が芝居をしているような気がした。上手に年を重ねた、きちんとした女の人の芝居を――。でもそれは、全然いやな感じではなかった。むしろなんだかなつかしく、穏やかな気持ちだった。
ウェイターにメニューをさしだされ、梨花は膝に置いていたハンドバッグから、馴れた仕種で老眼鏡をとりだしてかける。そして驚く。そうなの? あたし老眼鏡をかけるの?
そのときそれが目に入った。ハンドバッグのなか、ハンカチやらティッシュやら手帖やら、他にもよくわからないものがごたごたと色々入っているその隙間に、見慣れたパッケージの、半分ほど減った板チョコが一枚押し込まれている。梨花は思わず微笑んだ。あたし、あいからずこれが好きなんだわ。
その板チョコは、仲間のように思えた。古い友達のように。
「梨花」
声がしてふり向くと女友達が立っていた。梨花はまだ店の前にいて、いつものジーンズ姿だ。
「びっくりしたー」
梨花は言い、重い扉を自分の手で押しひらく。

番組へのメッセージ

主人公が、重い扉をきっかけに自分自身の未来を覗き見する不思議なストーリー。
読み手側次第で、様々な受け止め方をするお話だと思います。
僕自身が感じたのは、自分の将来、未来、これから起こる事なんて誰も想像出来ないということ。
そして、このお話に出でくるチョコレートのように「変わらない何か」も必ずついてくる。
あなたはどんな未来の扉を開けますか?素敵なお話との出会いに感謝します。
 
山崎育三郎

時間のたつのはほんとうにあっというまだ、と思うとき、
私はなんだかそらおそろしい気持ちになるのですが、
いまの私のなかに子供のころの自分がいるように、
老女のなかにも依然として、少女がひそんでいるのだろうな、とも思います。
木製の、重厚な扉は板チョコレートに似ています。
 
江國香織


江國香織

江國香織(えくに・かおり)

1964(昭和39)年東京生まれ。1987年「草之丞の話」で「小さな童話」大賞、1989(平成元)年「409ラドクリフ」でフェミナ賞、1992年『こうばしい日々』で坪田譲治文学賞、『きらきらひかる』で紫式部文学賞、2002年『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』で山本周五郎賞、2004年『号泣する準備はできていた』で直木賞、2012年「犬とハモニカ」で川端康成文学賞、2015年に『ヤモリ、カエル、シジミチョウ』で谷崎潤一郎賞を受賞した。小説以外に、詩作や海外絵本の翻訳も手掛ける。


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