おやすみ王子

第一話「ポケット」川上弘美

   爪を切るのが好きなのです。ぱち、ぱち、といい音をさせて、日曜日の午後、新聞紙を広げ、左右の手の爪を、すっかりきれいに切るのです。切られた爪は、細い三日月のかたちをしています。ひとかけ、指先にのせて、じっと見ます。さっきまで、この爪は、わたしでした。でも、もうわたしじゃない。さっきまでわたしだった爪。
   日曜日の午後は、さみしいのです。理由はありません。さみしいままコートを着て、外に出ましょう。
   外はまぶしい。猫がいます。白と黒のぶちの猫で、名前は前田。前田の後をつけてゆくと、すぐそこの小路(こうじ)に入っていきました。子どもが二人、前田を呼びました。りりか、りりか、にゃおにゃおー。子どもは、どうやら姉妹らしい。前田、現在は、りりか、は、姉妹の呼びかけを無視して、どんどん行ってしまいました。姉妹も、走って反対の方向へ。そのままりりかの方についてゆくと、一軒の家に入ってゆきます。庭の手入れをしていた女のひとが、ファン、とりりかを呼びました。ファン、なにか食べる? 前田改めりりか改めファン、は、少しのびをして、日だまりに寝そべりました。女のひとは、家の中にいったん入り、煮干しを手に戻ってきます。眺めているわたしに向かってかすかにほほえみながら、女のひとはファンの前に煮干しを置きました。ファンですか。わたしが聞くと、女のひとはうなずき、そう、略してファン。正式にはファンダメンタル。と答えました。
   人ごとに名前の違う猫、ファンダメンタルは、煮干しを少しかじり、エアコンの室外機の上に飛び乗り、丸くなりました。庭に、薔薇の木が何本もありました。何色の薔薇が咲くのだろうかと思いながら、でも、女のひとには訊ねず、庭を後にします。
   おなかがすいたので、何か食べましょう。うどんがいいな。寒いし。駅までゆき、「うどん」「そば」とのぼりのある店に入ります。揚げ玉入りうどんの券を自動販売機で買い、カウンターに置きます。出てきたうどんを盛大にすすり、けれど揚げ玉はしばらく食べません。揚げ玉が、出汁を吸ってどんどんふとってゆきます。しまいまでふとりきったところで、おもむろに口にはこぶのです。
   店をあとにして、行き先を決めずにまた歩きだします。口をあけると、かすかに湯気がでました。口をあけたまま歩いていると、すれちがったひとが、へんなものを見たような顔になるのが、可笑(おか)しい。そのまましばらく、口をあけていました。わたしの体が口をあけていると、わたしのたましいも口をあけているような感じ。そして、たましいからも、湯気がでている心地(ここち)。
   さきほどの庭に戻ったら、まだ前田が室外機の上に丸くなっていました。にゃ、と呼びかけると、前田は薄目をあけ、すぐにまた目を閉じました。寒いね、と前田に言い残し、家路をたどります。道に、ガラスの屑が落ちていました。もうじき日が暮れるという、その薄い光を受けて、きらきらと光っています。ひとつぶ拾い、コートの右ポケットに入れます。かり、という音がしました。ポケットに入っている石にあたったのでしょう。石じゃなくて、貝殻かもしれない。いろいろ、入っているのです。
   玄関の扉をあけるころには、すっかり日が暮れています。午後から夜にうつったので、さみしい、のかわりに、うす苦(にが)い、がやってきます。さっきの庭の薔薇のことを、少し思いかえします。薔薇は、きっと赤い。そう決めて、コートを脱ぎました。夜の匂いが、コートの襟のあたりからたってきます。女のひとは、はさみをぱちんと鳴らして、赤い薔薇を切ることでしょう。赤い薔薇は、夜の闇にうかび、ゆっくりと花びらを散らすことでしょう。散った花びらは、朽ちてゆくことでしょう。その花びらを、いつかわたしは拾いにゆきましょう。そして、コートの右ポケットに、こっそりとしまうのです。

番組へのメッセージ

眞島秀和

眞島秀和

朗読や、ナレーションは時々やらせて頂くことはありますが、朗読している姿を撮影するという作品は経験したことがないものだったので、なんというか、難しかったです。タイトルも「おやすみ王子」という40過ぎの男にはそこはかとなく恥ずかしいものがありました。
ワンコと触れ合う撮影シーンもあったので、とても癒されました。僕ら3人の朗読も、皆様にとって何かしらの活力になれればいいなと思います。


プロフィール
1976年11月13日 山形県生まれ。
映画「青 chong」でデビューし、TVドラマ「海峡」(NHK)で評価を得る。近年の出演作に、映画「愚行録」、「心に吹く風」、連続ドラマ「PTAグランパ2!」(NHK)、ドローンカメラを駆使したドラマ「カラスになったおれは地上の世界を見おろした。」(NHK)など。
『ザ・空気 ver.2 誰も書いてはならぬ』、『CHIMERICAチャイメリカ』など舞台でも活躍。映画、舞台、テレビと多岐にわたって活動。


川上弘美

川上弘美

道で猫に会うと、しばしば後をついてゆきます。けれど、柔らかに歩いてゆく猫たちの後を追いきれることは、めったにありません。猫たちと人間たちは、一緒にいるのに別々。それがここちよくて、追いきれないことが楽しくて、ついていってしまうのかもしれません。


プロフィール
1958年東京生まれ。小説家。
94年、「神様」でデビュー。96年、「蛇を踏む」で芥川賞受賞。『神様』(ドゥマゴ賞)、『センセイの鞄』(谷崎潤一郎賞)、『溺レる』、『龍宮』、『ニシノユキヒコの恋と冒険』、『古道具中野商店』、『真鶴』(芸術選奨文部大臣賞)、『大好きな本』、『どこから行っても遠い町』、『七夜物語』、『水声』(讀賣文学賞)、『大きな鳥にさらわれないよう』(泉鏡花賞受賞)、『ぼくの死体をよろしくたのむ』、『森へ行きましょう』、『東京日記』など。

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