「じゃあ何?」

12月9日 ディレクター 原 義和


福島県南相馬市は、私がよく訪れている場所の一つです。
最初に訪れたのは、2011年4月。まるで戦車のような自衛隊の装甲車が、一般道を連なって走っていて、異様な雰囲気でした。屋内退避の指示が出ており、ちょうど小高区が警戒区域に、原町区が緊急時避難準備区域に、避難指示が変わるところでした。南相馬市は、7万人の人口が当時、1万人に減ったと言われています。原発30キロ圏に入る大手メディアはとても少なかったのですが、しかしそこでは、 避難できない母親が配給に並ぶ状況すらあったのです。避難したくてもできず、孤立している障害者がいるはずと、兵庫県神戸から救援に来ていた人たちが戸別訪問をする様子を、私は取材。Eテレの 「きらっといきる」という番組で放送しました。それが、今に続く福島取材の原点です。

原発災害は、一体何をもたらしたのか。
その不条理を身に受けて生きている被災者と出会った時、
どう関われるのか、関わらなくてよいのか…
どう撮れるのか、撮らなくてよいのか、撮ってもよいのか…
私は常に問われ、突きつけられてきました。
逡巡し、動揺し、答えが出せない自分に苛立ち、やっぱり“撮らなければ”と取材の模索を続け、現在に至っています。

今回は、南相馬市立小高病院の医師3人のそれぞれの思いや取り組みを取材しました。小高病院は、 2016年2月の放送(vol55)でも取り上げていて、いわばその続編です。
いつもなら、取材した方にスタジオに来ていただき、お話を聞くことが多いのですが、今回は、ディレクターの私自身が、司会の箭内道彦さん、合原明子アナウンサーと語り合うことになりました。
私がずっと『撮り続けている』ことを、プロデューサーが大事に考え、そういう提案をして下さったのです。

スタッフこぼれ話

箭内さんは、VTRを見ながら、そこで語られている“キー”となる言葉を捉え、テーマの本質をつかんでいく力に優れています。
今回、箭内さんが着目したのは、週一回、小高病院で外来を担当している今野明医師の次の言葉でした。

「あきらめちゃったというんじゃないけど、今さら、『じゃあ何?』って感じ」

まだ震災で崩れたままの家の中で、その惨状を前にして、言い捨てるようにこぼしたひと言です。カメラから顔をそらし、私に背を向けながら、今野さんはそう語りました。

スタッフこぼれ話

そこは、今野さんが中学生の時に建てられ、震災時はお父様とお母様が住んでいた母屋です。東電福島第一原発からは約16キロ。旧警戒区域で、強制避難エリアだったので、その後、片付けすらできなかったことが、“痛み”をより一層深めているようでした。

震災まで、今野さんは南相馬市小高にあった今野外科の院長でした。
小高区が立ち入りできるようになってから、その建物を目にした人は多かったと思います。国道6号線から小高の町中に向けて陸橋を上がると、すぐ左手に見える大きな建物がそれでした。外壁が崩れ、半壊状態の痛々しい様子が目に焼きついています。
そこは、ご両親が一から築き上げた、小高の大切な医療拠点でした。
患者やその家族、医療者たちの様々な思い、悲哀、喜びなどがいっぱい詰まった建物。震災前に今野外科の患者だった人に聞くと、「アットホームで温かい雰囲気だった」と誰もが言います。お父様である初代院長の宏さんは、ダジャレが好きで、いつも患者を笑わせていたそうです。特に、子どもが大好き。風船を膨らませる道具などおもちゃをいろいろ用意し、子どもたちが少しでも痛みを意識から遠ざけられるように、安心して治療を受けられるように工夫していました。
あの建物は、まさに笑いと涙の記憶にあふれ、今野さんたちが長年かけて積み上げた努力、苦労の結晶だったのです。それが、地震で壊されただけでなく、放射線を浴びて避難を余儀なくされ、片付けもできないまま何年も放置するしかない状態にされました。そしてついに、2年前、解体されることとなったのでした。

すっかりさら地になったその場所を前に、今野さんは言いました。

「言葉が出ないです」

スタッフこぼれ話

なぜ、さら地にしなければならなかったのか…
今野さんにすれば、家族の大切な人生を根こそぎ奪われたような、頑張ってきた人生の全てを否定されたような気持ちだったに違いありません。

「じゃあ何?」

言い捨てるように語られたこのひと言は、誰に向けられていたのでしょうか。
国でしょうか、東電でしょうか。

私はこの時、取材をしている私に向けられたように思いました。
今野さんはそんなつもりはなかったと思いますが、私は次のように感じたのでした。
『こんな目に遭った私の傷を、いまだ癒えずに苦悩している私をあなたは撮っているけれど…… 私のこの思いを、あなたは理解できているでしょうか?』

おそらく分からないはずだと、今野さんは直感的に思われたはずです。
被災者と取材者の度し難い隔たりを、私は感じていました。今野さんもまた、私の表情や様子を見て、“伝わっていない” “理解されていない”ことを感じ取っていたに違いありません。
私の力不足もあります。しかし、それだけでなく、犠牲を身に受けた人にしか分からない感情があるのではないかと思うのです。他人がいくら察したところで、決して分かり得ない気持ち。
虐げられた者の気持ちは、虐げられた者にしか分からないということ。

しかし、その気持ちを知ろうとする努力は必要だと考えています。それは原発災害によってもたらされた傷であり、傷を負わせた罪責は、社会的なものだからです。

「じゃあ何?」

箭内さんは、この言葉をとりわけ大事に捉え、こう言いました。
「7年以上経って、あの言葉が出るっていう、すごく重いひと言だったなあと思います」

今野さんが、ぼそっとつぶやいたひと言に含まれている、容易に言葉化できない多くの思い。悔しさ、怒り、失望、後悔、無念、悲しみ……それらの思いを、私たちはどれだけイメージできるのか。
それを、取材者も、おそらく視聴者も問われているのだろうと思っています。

そうした傷は、時が解決してくれるものでしょうか。時間が経つにつれて、癒されていくものでしょうか。そもそも、原発災害は終わったのでしょうか。
強制避難によって、一緒に暮らしていた家族がばらばらになった例は、数えきれないほどあります。
今回、取り上げた独り暮らしの男性は、仮設住宅から小高に帰還する直前に妻を亡くしました。4世代が同居し、ひ孫が学校から「ただいまー」と帰ってくる生活は、震災後に一変してしまいました。

「誰もいねえんだもん、寂しいもんだ、はあ」

原発災害がなければ、孤独な生活を彼が強いられることはありませんでした。避難指示が解除されても、小さな子どもを抱えた家族の多くが戻ってこないのは、そこに放射線があるからです。何があろうと絶対に子どもの命を守りたい、リスクは1ミリでも回避したいという母の強い気持ちは尊いものです。

しかし、お年寄りはと言えば、何があろうとなかろうと自宅に戻りたい、できることなら最期の時を自宅で迎えたい、そう覚悟を決めて帰還している人が少なくありません。
その小高にあって、医師に求められているのは「ターミナル」、つまり終末期医療です。
体が弱っていくのは避けられません。でも、いざという時には病院があり、医療者がいて、診てもらうことができるということ。いかに痛みなどを緩和し、穏やかに、人生の最後の時間をなるべく自宅で過ごせるよう、支援してもらえるかということ。
大事にされ、愛されて、希望を見失うことなく、“生きていて良かった”と、最期まで感じられる人生であってほしい……。小高病院の医師たちが、模索しながら、日々挑戦しているのは、そうした終末期医療なのです。

東北の人は我慢強いと言われます。
原発災害によって孤独と絶望を負わされたお年寄りの多くが、決して弱音を吐こうとはしません。でも、その優しさと弱さに甘えてはならないと思います。

これ以上、言わせてはならないのです。

「じゃあ何?」と。


「ふるさとへの思い 高校生たちの挑戦」

12月7日 アナウンサー 合原明子 & デスク 成松弘明

今回おじゃましたのは南相馬市にある県立 相馬農業高校。
「ふるさと南相馬が大好き!」という5人の高校3年生に会ってきました!
スタッフこぼれ話

「これからの南相馬、どうなってほしい?」と聞くと・・・

「相馬野間追のお祭りのときは、海外からも観光客が来てとってもにぎわう町だけど・・・ちょっと街灯が少なくて夜帰るのが怖いから、東京みたいに明るい町になってほしい!」
「もうちょっと若者向けのお店ができるといいのにな・・・例えばスターバックスができたらいいな、学校帰りにスタバに通うことが夢だったので!」
「『アイスまんじゅう』が本当においしいんです!もっと人気になって活気あふれる町になってほしい!」


などなど 笑顔いっぱいに答えてくれる、どこにでもいる高校生・・・と思いきや!
実は、この5人。植物を人工的に増やす研究をするインテリ高校生なんです。


例えば、こんな研究が・・・

スタッフこぼれ話

◆ハエトリソウを人工的に増やす研究 鈴木有紗

絶滅危惧種にも指定されている食虫植物ハエトリソウ。その名の通り、ハエやクモなどの昆虫をつかまえて捕食する植物。

「研究がうまくいけば、家畜に群がるハエとかで困っている地元の農家さんの役に立つかもしれないと思って 研究しています!(笑!)」
スタッフこぼれ話

◆ハマナスの花を増やす研究 田尻悠貴くん

実は、このハマナスは南相馬の人たちにとっては特別な花。
東日本大震災で南相馬市の浜辺に咲いていたハマナスはそのほとんどが波にさらわれ壊滅的な打撃を受けました。 しかし翌年 再び浜辺に力強く咲くハマナスを見て、地元の人たちは復興へとつながる「希望の花」と呼ぶようになったそうです。
相馬農業高校でもハマナスの増殖には力を入れていて、田尻くんも何か自分にできることがないかと考えたことが研究のきっかけだと語ってくれました。

「僕が育てたハマナスが大きくなって、少しでも浜辺にまたもどっていってくれれば本当にうれしいです。」

他にも、番組では

スタッフこぼれ話

◆「●●●●!?で育てるマッシュルームづくり」

南相馬ならではのあるモノを使った研究をする柿平早也佳さん

スタッフこぼれ話

◆「カルス!?サイトカイニン!?ベンジルアデニン!?」

特殊な植物細胞の研究をする中島康太くん

スタッフこぼれ話

◆「花粉症の人も気軽に育てられる!?」

ちょっと変わった花の研究をする井島梓さん

一体どんな研究なのか?
そして、その研究に込められた思いとは・・・

ふるさと南相馬への熱い思いをもって 研究に打ち込む高校生たちの声を紹介していきます。
12月9日(日)深夜0時 からEテレ
是非見てください!

スタッフこぼれ話

追伸
OA直前!!
『●●●で育てるマッシュルーム』の その後の情報が番組に寄せられました!

取材をしたときは白いマッシュルーム菌が広がっていただけでしたが
1cmぐらいの小さなマッシュルームが出てきたそうです!
これからの成長が本当に楽しみです!


「“ひたむき”が未来をつなぐ」

 9月21日 アナウンサー 合原明子

合原明子です。
今回の「福島をずっと見ているTV」の舞台は、川内村。東京電力福島第一原発から30キロ圏内。
2012年1月に帰村宣言を出し、周辺の自治体に比べていち早く帰還を始めました。
現在、およそ7割の人が村に戻っています。

「ゴー!バル」では、新しい挑戦をしているという しいたけ栽培農家を訪問しました。
出会ったのは、キラキラした笑顔で出迎えてくれた農家の遠藤雄夫さん(41歳)と子供たち。
さらにはピカピカの真っ白な施設。立派に育った しいたけたち。
おもわず圧倒されました。

震災後、しいたけ農家を継ぐことを決めたという遠藤さん。迷いや不安もあったと言いますが、
楽しみながら栽培する姿が印象的でした。
「“ひたむき”しいたけ」というブランドを新しく作りたいとも話してくれました。
遠藤さんがその名前に込めた思いは・・・番組で紹介します。

さらに…
収穫したばかりの しいたけ、遠藤さんのお母さんが素焼きにしてくださいました!


 

スタッフこぼれ話

お盆で帰って来ていた親戚の子供たちと一緒に頂くことに。
「無限に食べられる」と笑顔で頬張る子供たち。網を囲んでみんなでわいわい。あたたかい時間でした。

スタッフこぼれ話

若い世代が少ないことが課題という川内村。
ただ、こうして子供たちが純粋に楽しめる空気があり続ければ、きっと未来は明るい。
そんな光を見た気がしました。

スタッフこぼれ話

その他、川内村で頑張る若者たちの姿も取材しています。
ぜひ、川内村の今を感じてください。

放送は、9月23日(日)午前0時~です。


「楢葉町で見つけた、小さな幸せ。」

 6月22日   デスク  成松 弘明

はじめまして。この春から「福島をずっと見ているTV」の一員になりました成松弘明です。
これまで「いじめをノックアウト」という番組を5年間担当。これからは「福島をずっと見ているTV」もあわせて担当していきます。福島県のみなさん、そして福島とゆかりのあるみなさん、よろしくお願いします。
スタッフこぼれ話

今回私は、楢葉中学校でおこなわれた『架空同窓会』のロケに行ってきました。「20年後、自分たちはどんな生活をしているのか?」その時の自分になりきって架空の同窓会を開いてみよう!というちょっと変わった特別授業です。
なかなか「いじめをノックアウト」の番組では、出会うことができない授業に、ワクワク・ドキドキしながら カメラをまわしていました。

スタッフこぼれ話

この授業で、ふたつの発見がありました。
一つ目は、「将来の仕事を語る中学生ってどこの中学生も同じだな」ということ。

授業がはじまる前、ちょっぴり期待していたことがありました。もしかしたら震災とつながりがある将来の仕事が見えてくるのではないか?授業を受ける中学生は、震災当時は小学生。その当時の記憶もしっかり残っていると思われる子どもたちです。当事者である子どもでしか語ることができない未来が見えたりするのかもしれないなと・・・
実際は・・・もちろんIT企業で働きながら防災アプリの開発をしている女の子もいます。しかし大部分の子どもたちは、自動車整備士や花屋さん、美容師になっていたり・・・。番組では紹介しきれなかった子どもたちの中には、You Tuberになってフォロワー400万人!新潟で米作りをしているという生徒も!!
これまで「いじめをノックアウト」で全国にあるさまざまな学校を取材してきました。休み時間に子どもたちと盛り上がる話題は将来の仕事の話。話を聞いてきた中学生のことを思い出しながら・・・「将来の仕事を語る中学生ってどこの中学生も同じだなー。」ということに気づかされました。

二つ目は、「日常生活の中には、小さな幸せがたくさんある」ということ。

子どもたちの話を聞いていて、とってもほほえましかったことがありました。それは、20年後の“生活”を語る子どもたちの姿です。「結婚して、いま子どもが二人いる。上の子が男の子で、下の子は女の子。子育てが大変だけどパートに出てる。」とうれしそうに語る女の子。「親の面倒を見なくちゃいけなくて給料が少ないから、もうひとつバイトをしようと思っている。」とてれながら語る男の子。20年後、自分たちの暮らしの中にある“小さな幸せ”をしっかりと見つけながら話をしている姿がとても印象的でした。ついつい大人になってしまうと忙しさをいいわけに、忘れがちになってしまう日常生活の中にある小さな幸せ。そのシアワセの意味を、中学生たちが語る未来の生活から教えられたような気がしました。

今回授業に参加した子どもたちが、本当に20年後、どんな仕事をしていて、どんな生活をしているのか?
「楢葉でみんなに会いたいです。この学校で生活したのもあるし、たくさんの思い出がつまってると思うから」という女の子の言葉を聞きながら、思わず私も参加することできないかな~という気持ちになってしまいました。

番組では、他にも、いま楢葉町で暮らしている人たち、ゆかりがある大学生たちが出てきます。
みなさんは、どんな“小さな幸せ”を発見しますか?
 

*放送は 6月24日(日)Eテレ 午前0時(土曜深夜)
   vol.73 楢葉町の未来。どんな町にしたいですか?


「“3.11” 「笑顔」の裏にある思いとは」

 3月19日   アナウンサー  合原 明子

震災から7回目となる今年の3月11日。
福島の皆さんはどのような思いで過ごされるのか、
どんな空気感なのかを取材しに、福島に向かいました。
私自身、3月11日を福島で過ごすのは、2012年以来。
私もどう感じるのか想像ができず、少しだけ緊張して出発しました。

向かったのは沿岸部の浪江町。
まず感じたのは「課題はまだまだある」ということでした。
海岸沿いにあったかつての住宅地は、津波の被害を受けたあと整備され、
まっさらにならされていました。とても静かでした。
人が住んでいたことがにわかに信じられない位、何もありませんでした。
福島は原発事故の影響が取り上げられがちですが、津波の被害も甚大で、
今もその影響が残っていることを決して忘れてはならないと感じました。

避難指示の解除からまもなく1年となるものの、町中も、歩いている人の姿がありません。
震災当時の被害のまま朽ち果てている建物も目につきました。
その一方で、新しくできた飲食店の姿もありました。店の前には沢山ののぼりが。
そして、ランチをする人たちの車、車、車。
はためく「営業中」ののぼりで、パッとその場が明るくなっているように感じました。
「人がいる」って、こういうことなのだと思いました。

こちらは、お昼にいただいた豚カルビ定食。
脂がのっていて柔らかくて、あっという間に食べてしまいました。
男性でも満足できる位のボリューム。ごちそうさまでした!

復興商店街にも足を運びました。商店街には、日曜日を楽しむ町の方たちでいっぱい。
5,60人はいたでしょうか。
14時46分もその場で迎えました。
黙とう中、これまで取材した方々の顔が浮かびました。
今どのように、皆さんはこの瞬間を迎えているのだろう。久しぶりに連絡を取ってみようかしら。少しでも穏やかに過ごされていればいいなと、思いをめぐらす時間になりました。

黙とうが終わり目を開けた瞬間、飛びこんできたのは、
視線を落とし厳しい表情をしている皆さんの顔。
心の底には様々な思いを秘めて、前を向こうとしているのだと改めて感じました。

たくさんの人にお話も伺いました。
津波に流された思い出の品を保管し続ける施設で働く方たち。
復興庁のインターンで浪江に来た大学生。
ゲストハウスを作ろうと奮闘する若者たち。
様々な年代の「笑顔」に出会えた気がします。
笑顔の裏には、どんな思いがあるのか。ぜひ番組で感じてください。

*放送は 3月22日(木)Eテレ 夜10時
   vol.72 それぞれの3月11日。8年目への思い。


「福島を伝える難しさと向き合ってきた人たち」

 12月11日   ディレクター  小川 謙治

12月14日の放送は、これからこの番組も含め、どうやって福島のことを伝えていったらいいのか、改めてじっくり話し合う場を設けてみようということで、以前から僕が気になっていた人たちに声をかけることにしました。

一人目は、ネットニュースの記者・石戸いしどさとるさん。石戸さんの福島にまつわる記事は新聞記者時代から目にしていて、正直、参考にさせてもらったり、番組でのテーマを考えるきっかけになったことが何度もありました。どんな人なんだろうと思い、今回初めて会いに行き、出演をお願いしました。考え方・感じ方が僕らの番組と近いなと改めて思いつつ、それを言葉にして発信していく強さを感じました。注目の若手論客。今後の活躍も楽しみです。ちなみに、地上波テレビは初出演です。

続いて、声をかけたのは、福島大学3年生で今年の2月にも番組に出演してもらった上石あげいし美咲さん。ミスピーチをやっていた時に経験した「桃をはき出される」という体験については番組でも紹介したのですが、その後の彼女の思いや行動こそが、僕は伝えたいことで、改めて話を聞きたいなと思いました。今は地元FMでラジオ番組を担当しながら、若者目線で福島を語ろうとがんばっています。来年、就活だそうで、どんな仕事に就くのかな。

そして、福島県二本松市の元・小学校教諭の佐藤敬子さん。敬子先生からは、時々、思い出したように連絡をもらうのですが、いつも電話では伝わりきらないことばかりで、「それでは、行きます!」といった感じで足を運びます。今回も、特に番組の取材というわけではなく、合唱団の練習を見学に行ったのですが、突然、授業が始まって、これはと思い、急きょカメラを回しました。ちなみに、いつも見学に行くと、無茶ぶりをされ、歌を歌わされたり、子どもたちの質問に答えさせられたりと、結構大変です。前に取材させてもらった小学生たちが、中学生になっていたりして、久々に話ができてうれしかったです。

当初は3人プラス、箭内さんでお話をしようと思っていたのですが、合原アナとの取材中に、あれっと思いついて連絡を取ったのが、原発作業員としての体験を『いちえふ』に描いた漫画家の竜田たつた一人かずとさん。実は、今回が初対面なのですが、妹さんとは何度もお会いしたり撮影させてもらったりもしていたので、妹さん経由で紹介してもらいました。作業員としての経験はもちろんのこと、福島のことを笑いを交えて語れるというのはとても貴重な存在だし、大切なことだなと、収録を終えて改めて感じました。ちなみに妹さんは、北川玉奴さんといって、歌を歌っていて、福島界わいにもよく出没するので、こちらも要チェックです。

今回の出演者のみなさん、とても話が得意な方々ばかり(というか、よくしゃべる人たちばかり)で、収録の予定時間をかなりオーバーしてしまい、当初予定していた、これからのこと、未来に向けて必要なこと、まで話し合う時間がなくなってしまいました。残念ではありますが、途中経過ということで、現状のそれぞれの言葉をじっくり聞いて、何かのきっかけになってくれたらと思っています。ちなみに、収録後の打ち上げでも4人は延々話し続けていました。

*放送は 12月14日(木)Eテレ 夜10時
   vol.71 徹底討論! “福島を伝えること”


「“楽しい”のチカラを知る」

 9月26日   アナウンサー  合原 明子

2回目の「ゴー!バル」の舞台は、福島県白河市で行われた音楽イベント「風とロック芋煮会2017」。
ロケを行ったのは9月初旬。会場に「福島をずっと見ているTV」のブースを出し、来場した皆さんにインタビューさせていただきました。

テーマは「今の福島についてどう思うか」。福島の人には「今、福島から伝えたいこと」。
県外の人には「福島の人たちに伝えたいこと」。
良く晴れた2日間で、県内外の総勢44組・86人の方がお話をしてくださいました。
 
県内の方にお話を伺って、今回改めて感じたのが「福島の広さ」です。
浜通り、中通り、会津。震災の時に受けた被害も、思いも様々。
「二度と自分と同じような経験をしてほしくない」と語る方、「あの時からずっと辛い思いをしている」と涙をこらえて話す方。「自分のところは被害がなかったので、復興が進んでいるかは正直分からない」と申し訳なさそうに話してくれる方もいました。
そうした中で、どうすれば、みんなで福島について考え続けていけるんだろうと思いました。
 
一方で、県外の方に思いを聞くと、「震災とは関係なく、食べ物がおいしいから来る」「楽しいから来る」という声。「福島が魅力的な場所だから」という理由で来ている方が目立ちました。これも「支援」のひとつなんだな…と改めて感じ、皆さんの言葉に納得しながらお話を聞きました。
私も会場で久しぶりに白河ラーメンを食べましたが、もちもちの麺にすっきりとしたスープ。おいしさにうなりました。

また復興に関しては、こんな県外の方の声も。
「建物の再建が進み、復興の段階が目に見えない部分に移ったと感じる。そのため、今、何に困っているのか見えにくくなってきた。助けたいと思う気持ちはあるのだけれど。」
助けたいけど、どうしたらいいのか分からないという言葉でした。
 
今回のイベントで出会った人たちは、みんなイベントを楽しみ、一様に「良い顔」をしていました。「会場で自然と友達ができる」と話してくれた方もいて、「良い顔」をした人はその位心が開いた状態になるし、人同士がつながりやすくなるのだと思いました。
「楽しい」という感情が持つパワーを感じた現場でした。
ただ、震災から6年半、まだまだ元気が出ずに、こうしたイベントに足を運べない人もいます。そうした人と、先ほど書いた「助けたいけど…」という思いを持った県外の方をつなぐには、どうしたらよいのだろう。
そんなことも感じた今回の「ゴー!バル」でした。

インタビューに答えてくださった皆さん、本当にありがとうございました。
インタビュー映像はこのホームページでご紹介させていただく予定です。
 
*放送は 9月28日(木)Eテレ 夜10時
   vol.70  “復興”ってなんだろう?

「震災がもたらした孤独」

 9月22日   ディレクター  原 義和

震災から6年半が経って、まだ仮設住宅の暮らしが続いている人たちがいます。なんとかならないものかと思います。でも、今回私が取材したのは仮設住宅ではなく、県営の復興公営住宅です。南相馬市にある「南町団地」。鉄筋コンクリートの新築5階建て。入居者の多くは、仮設住宅から移ってきた人たちです。仮設住宅を出られて皆さんほっとしているのかというと、必ずしもそうではありませんでした。インタビューでは、「むしろ仮設住宅の方が良かった」と答えた人が少なくなかったのです。

なぜでしょうか。

去年12月に入居が始まり、255の部屋はほぼ埋まっています。仮設住宅では、水まわりなどカビだらけになっていた所も多かったと思います。隣りの住人のくしゃみの音も筒抜けだったプレハブ造りの仮設に比べると、生活環境は抜群に快適なはずですが…

復興公営住宅「南町団地」(南相馬市)

今回お話を聞いたのは、復興住宅「南町団地」に住む浪江町からの避難者で、60代後半から80代の女性たち。浪江町は、全域が東京電力福島第一原発から20キロ圏内の旧警戒区域と放射線量の高い旧計画的避難区域で、全町民が強制避難の対象でした。ことし3月末、帰還困難区域をのぞいて避難指示が解除され、住めることになりました。

73歳の女性が、浪江町の自宅を案内してくれました。既に解体作業が終わり、さら地になっていました。目の前の通りはトラックの往来が激しく、騒々しさが目立つ一方、周りに生活感は全くありませんでした。「近所で戻ってくるという人は聞いたことがない」と言います。その女性も帰還はあきらめていて、その土地に新たに家を建てるつもりはないとのこと。でも、帰りたい思いが心の片隅にあり続けていることも話してくれました。

家が解体され、さら地に…(浪江町)

浪江町の家は解体の申請を出しているが、いつ解体作業が始まるか分からないという85歳の女性も取材しました。最近になって家の中にイノシシが入りこみ、仏壇まで荒らしていったと言います。それを見つけた時、思わず倒れこみ、泣いてしまったそうです。その女性も「近所で帰還する人は誰もいない。ひとりで帰っても困るだけだから帰れない」と話していました。
 
震災前は濃密な近所づきあいがありました。支え合いが分厚かったからこそ、ひとり身でも暮らしていけました。そうした人間関係は、生活の基盤であると同時に暮らしの豊かさや何気ない日常の幸せの基礎でした。原発災害に伴う避難で、それらは分断され、日常生活は壊されてしまいました。皆、ばらばらに避難せざるを得なかったからです。

イノシシに荒らされた跡(浪江町)

しかし、これまで生活してきた仮設住宅では、隣近所と距離が近く、外部支援も含めて助け合いが当たり前のようにあったのです。インタビューした女性たちは口々にこう話しました。
 
「復興住宅ではプライバシーが確保されている反面、隣近所に誰が住んでいるのか分からない」。
 
むしろ仮設住宅の方が良かったと語ったのは、ある意味では震災前のような濃厚な人間関係が、仮設住宅にはあったからだろうと思われます。

同じ復興住宅に昔の知り合いや仮設住宅の時に親しくなった人がいる人は、互いの部屋にお茶に行くなどの交流を図っていました。しかし、そういう知人友人が近くにおらず、部屋からほとんど出ずに過ごしている入居者も結構いらっしゃるようでした。交流のためのイベントも行われていますが、参加する人は限られていると南町団地の管理人代表者(入居者)は話していました。

ひとりでテレビを見る入居者(南町団地)

入居者の多くがひとり住まいの高齢者という現状もあります。助け合いがより必要な人たちです。家族がばらばらに避難していて、否応なくひとり住まいになった人も大勢います。故郷に帰ることができないということは、家族との生活や地域の絆、日常の幸せが奪われたことであり、特に高齢者にとっては希望の喪失にもつながっています。原発災害によって、今、何がもたらされているのかをしっかりと見つめたいと思っています。
 
別の復興住宅では、亡くなって数日経って発見された、いわゆる孤独死の例もあります。今に始まったわけではなく、22年も前の阪神・淡路大震災の被災者でも、復興住宅での孤独死の問題は現在まで続いています。死に直結する問題であり、社会の責任が問われる大切なテーマなのです。震災によって孤独な思いをすることになった高齢者にどう関わっていけるのか、今まさに試されていると思います。

*9月28日(木)夜10時からの放送では、これら復興住宅と漁業にスポットをあて
   福島の“復興”について考えます。


「“あれからの日々”のこれから」

 6月30日   ディレクター 落合 健治

「福島をずっと見ているTV」ディレクターの落合と申します。
今回、かつて取材した人たちを再び訪ねる、という企画を立てました。

今回ゲストに来ていただいた、『おだがいさまFM』の吉田恵子さんと初めて出会ったのは、忘れもしない2011年12月31日の夜でした。
『おだがいさまFM』はまだ開局していませんでしたが、年の瀬に富岡の人たちに声を届けようと、郡山市の仮設の集会所からインターネットでライブ配信する、というので取材にうかがったのでした。
紅白歌合戦の『猪苗代湖ズ』の演奏をワンセグで見ながら、富岡への思いや『おだがいさまFM』への意気込みについてお話をうかがったのを覚えています。
それから何度となく取材させていただいてきて、今回、震災から7年目にして、ついに富岡現地での収録の様子を取材ができたことが、自分としてもものすごくうれしかったです。

また、佐藤雅通先生と初めて出会ったときのこともよく覚えています。
福島の高校演劇部が、演劇の聖地とも呼ばれる東京下北沢で公演をすると聞き、会津美里町にある大沼高校に取材にうかがったのが、2013年夏。
最初の取材から、佐藤先生と大沼高校演劇部の、全力で演劇に向き合う姿勢に心を打たれました。正直言ってそれまで高校演劇は見たことがなく、どちらかというと敬遠していたのですが(ちなみに自分は高校時代サッカー部)、彼ら彼女らの演技にすごく引き込まれました。
それから4年、佐藤先生は異動されましたが、きっと部員のみなさんは、先生の意志と演出手法を継いでいくと思いますし、佐藤先生も、さまざまな形で、『演劇を通じて震災を考えていく』という活動を続けていかれるのではないかと思っています。

テレビ番組というのは、基本的に1回こっきりのもので、その時々を“点”で描くものですが、今回の番組のように、時間をおいて複数回取材させていただくと、福島の現状や福島の人たちの気持ちがどう変化しているのか(あるいは変化していないのか)を、“線”で伝えることができるので、次は5年後か10年後かわかりませんが、機会があったらまたやりたいなあと思います。
 
「震災を忘れない」――番組の収録で箭内さんも話されていましたが、それぞれの“忘れない”があると思います。ディレクターの一人として、自分なりの“忘れない”を胸に、福島をずっと見続けていこうと思います。


新コーナー「ゴー!バル」始まります!
~1回目は郡山市のホルモン焼き屋さんから

 6月26日   アナウンサー合原明子

6月29日の放送回から、私ごうばるがリポーターを務めるミニコーナー「ゴー!バル」が始まります。「バル(BAR)へGO!」ということで、福島の地元の人たちがよく集まる場所、つまりは居酒屋だったり、広場だったりと井戸端会議的な場所に出かけます。福島の人がいま何を考え、将来をどう思い描いているのか、耳を傾けます。
記念すべき第一回は、郡山市のホルモン焼き屋さんになりました。箭内さんが震災直後からたびたび訪れていて、ずっと行ってみたかった場所です。
 

「今一番の悩みは恋愛!」

郡山で生まれ育った全員二十歳という幼なじみ3人組。震災のときは中学生でした。今一番の悩みは、仕事でも復興の話でもなく、彼女がいないことだと言います。最大の関心事が恋愛や結婚の話であることが、素直に嬉しかったです。日常が戻ってきているんだと思いました。
そして、隣のテーブルにいた25歳の事務職の男性二人組。2人も「郡山は他の地域と全く変わらないことだけは分かってほしい」と繰り返し話してくれました。

「日常を伝えてほしい」

続いて、出会ったのは男女3人組。男性は猪苗代湖で観光業(ウエイクボードなど)を営む45歳。震災後、腹が立つのは、メディアの一時的な伝え方だといいます。
「福島最高」や「線量下がった」と発言しても自分たちの力では限界があるので、メディアがもっと福島を盛り上げてほしいと言われました。
女性は二人ともに宮城県出身。うち1人は去年福島に移住。もう1人もしょっちゅう福島に遊びにくるそうです。「実際に来てみたら想像と違った。外の人を歓迎してくれる空気がある」とのこと。お二人は福島の大自然と温かい人たちがとても気に入っているんだとか。

「リアルを伝えていくこと」

ずっと行ってみたかったホルモン焼き屋さん。扉を開けてすぐに飛び込んできたのは、にぎやかな声と、若者の笑顔でした。活気にあふれていました。
今回行った場所では地域差、個人差はもちろんありますが、「ひとやま乗り越えた」方に出会った印象です。心の中に「震災」を抱えながらも、前を向こうとしていました。
「メディアには日常を伝えてほしい。3月11日だけ特集を組むのは偽善だ」という声もありました。「日常が見えないと、福島のリアルは伝わらない」。その“日常”をこのコーナーでももっともっと伝えていこうと思いました。
新コーナー「ゴー!バル」は 29(木)の放送回からお目見えします。ぜひ、ご覧ください。
次は、あなたの街にゴー!バル。


「あの時、今、そしてこれから…」

 6月20日   ディレクター古舘勝義

6月29日の放送は、かつて番組に出演していただいた方たちの“あれからの日々”に迫るという企画。
震災から6年がたった今、どう過ごされているのか、どんな未来を思い描かれているのか、放送に先だってお話を伺った一部の方を紹介させてください!
2015年7月5日Vol.48「MY FUTURE 南相馬」の回に出演してくれた、
南相馬の農業高校に通っていた南海(なみ)さんと七海(ななみ)さん。
町の未来をテーマにしたラップを歌い、ふるさとへの思いを教えてくれました。
 
南海さん「みなさん一緒に ならんでみよう みつめたさきに それがある
 うーんどれだろね MY FUTURE 南相馬♪」

 
2年ぶりに訪ねてみると、南海さんは南相馬を離れていました。
でも「ふるさとのこれからを、みんなで一緒に探していこう」という思いは変わっていません。
今は矢吹町の短大で農業を学んでいます。
卒業後は南相馬に戻り、農業で地域を活性化していきたいと考えているそうです。

七海さん「みんなが なかよく みんな同じ 空をながめる うつくしま MY FUTURE 南相馬♪」

一方、南相馬に残って介護の仕事に就いた七海さん。
新人だった去年は仕事に慣れず、辞めたくなった時期もあったそうですが、
周りの人の支えでやる気を取り戻したそう。

「みんなでなかよく暮らしていきたい」
高齢化が進む南相馬を、介護で支えていこうと考えています。

2016年4月25日Vol.56「中小企業ドリーム~おじさんたちの“がんばっぺ1号”」の回に
出演してくれた、いわきの異業種が集まった中小企業のチーム。
「地元の企業こそが原発廃炉のために立ち上がるべき」と奮起し
“がんばっぺ1号”と名づけたロボットを自主開発していました。
 
しかし1年ぶりに訪ねると、開発は頓挫!チームは解散!!
ロボット実用化の見通しが立たなかったそう…。
 
それでも中心メンバーだった会川さんはあきらめていません。
技術力を高めようと、今は医療用の車椅子を開発。ロボット開発で得た技術を応用しているそうです。
外出しながら足のリハビリができるように、電動アシスト付きのペダルを取りつけました。
「たとえ遠回りをすることになっても、廃炉を目標に努力し続ければ、必ず道は開ける!
あきらめずにロボットづくりの夢を追いかける!!」と熱く語ってくれました。

29日夜10時からの放送では、その他たくさんの方々の“あれから”と“今”を見つめます。
お楽しみに!!


「都路で感じた“町の未来”」

 5月17日   ディレクター小川謙治

都路小学校のシンボル「笠松」

5月20日放送の都路取材を担当した小川です。

今年4月、町内に2つあった小学校を統廃合して出来た都路小学校の校歌を、
番組MCの箭内さんが作ったのをきっかけに、初めて田村市都路町を訪れました。

旧警戒区域(原発から20キロ圏内)では一番早く避難指示が解除され、ちょうど3年。
同じ市内に避難していた人が多かったこともあり、現在は7割の住民が自宅に戻っています。

3年経って何が変わり、何が課題なのか知りたいと、町で唯一の旅館にお世話になりながら取材を始めました。

ちょうど立派な鯉のぼりを準備しているおうちがあったり、散歩しているおばあちゃんに声をかけられ、
そのまま世間話が止まらずちょっと困ったり、数件しかない食堂を日替わりで、はしごしたり・・・。
小学校の児童たちにも、“いつまでいるの?”って言われるくらい、しばらく町にいました。

もちろん原発事故の影響で町の宝である山林が傷つき、元々あった工場が町外に移転したり、
一時は多かった除染や原発の作業員は浜通の方に移っていき震災需要も見込めなくなったり、
困っている部分はたくさんあります。

そんな中でも、僕が話を聞いた多くの人たちは、町の未来を考え、今できることをひとつひとつカタチにしていこうとしていました。
小学校の統廃合も、保護者や先生方が子どもたちのことを考え、たくさんの友達と一緒に過ごせるようにと決めたんだろうなと。

箭内さんの作った校歌も、町の未来を担う子どもたちにとって、故郷との絆を確かめる大切な何かになるんじゃないかなと思います。

番組の放送日は、ちょうど都路小学校で初めての運動会。全校児童で校歌を鼓笛隊パレードするそうです。

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