旅日記

「津軽 相撲にかける」

リポーター:B.T

青森は、私の大好きな日本の1つです。この国に来て最初の5年半、私は青森のすぐ南にある岩手県に住んでいました。青森は新鮮な魚介類と、世界的に有名な祭りと、厳しい冬で知られ、訪れるたびに心ひかれる新たな発見があります。
今回の青森への旅では、津軽半島の相撲を知ることができました。この北の地の相撲の伝統を垣間見られて、本当によかったです。かつて相撲が祭りの儀式の一部だったことも、地元で人気の娯楽だったことも初めて知りました。

それまで私がテレビで見ていたのは、少年たちが家を出て相撲部屋に入り、体重を増やすため大量に食べ続ける、という物語でした。力士の生活とは強くなって成功するか、強くなれずにやめるかのどちらかであり、その中間という妥協は許されない、という印象でした。
だから、相撲には別の側面もあると知り、本当にうれしく思いました。相撲とは、テレビで放送される大相撲のような世界だけではなく、学校の生徒にとっては究極の課外活動であり、土俵を持たない家族たちにとっては日常生活に欠かせない一部となっているのです。そして体験してみた私にとっては、この1年で最も効いた運動となりました。

焼きイカ通りも、楽しい場所でした。地元の漁師さんたちが、収穫物を天日干しして売っています。食の冒険家を自負する私は、干した魚やイカを、ビーフジャーキーのお手頃な代用品として喜んでムシャムシャ食べました。周囲のハエの群れにはちょっと辟易しましたが、味見をあきらめるには及びません。ハエがいてもいなくても生干しは美味だし、店主さんたちは親切で愉快な人たちでした。

五所川原にある立佞武多の館も訪れました。私は、言葉で表せないほど立佞武多祭りが大好きなのです。数年前に地元の友達と一緒に参加して、すっかりハートを射抜かれてしまいました。
あの山車に、えもいわれぬ何かがあるのです…高さ、光、色彩、筆で書かれた墨の質感…どれとは決められません、とにかく私は山車の全てに夢中です。お囃子の音に囲まれながら佞武多の顔を見上げていると、ハッピーなおとぎの世界で巨人と踊っているような気分になります。いつか世界中の人たちがここを訪れ、ご自分の目で間近に見上げられるといいなと思います。


「日光 建築探訪」

リポーター:ジェームズ・ランビアーシ

日光で訪ねた数多くの素晴らしい建物や名所について思いを巡らすと、建築の役割の重要性をますます強く確信します。建築物は、単に雨風をしのぐだけのものではありません。
文化や時代の結晶であり、祖先の願いを我々に伝えてくれるものです。

たとえば東照宮は、ただ徳川将軍家の初代・家康の墓所にとどまりません。それは平和と繁栄の世で人間が建築や技術を通じてなし得る自己表現の、輝かしい成果を我々に見せてくれるものです。建築物そのものが、平和を守ることの大切さを、遠い過去から未来の人類へと伝えているのです。

つい100年前も、日光は平和の象徴でした。20世紀初頭、外国の大使らがその美しい自然に魅了されました。金谷ホテルは、国際色豊かな顧客に向けて日光を開いた先駆けで、夏のあいだ中禅寺湖畔に避暑に来る上流階級の外国人らを歓迎しました。第二次世界大戦の惨禍の数年前という想像を絶する時代、日光にはベル・エポックがあり、英国人・アメリカ人・イタリア人・ドイツ人、そして日本人がともに湖畔につどい、ヨットレースに興じていました。

日光は我々に歴史を見せてくれるだけでなく、自然の美しさを愛でる人の心は不変であることを明かしてくれます。皆さんが次に日光を訪れるとき、皆さんは過去を知るだけでなく、その自然と文化の遺産への敬意を未来の世代へつなぐ架け橋となることでしょう。


「熱海 復活のリゾート」

リポーター:チャールズ・グラバー

子どもの頃、夏になるとよく旅に連れていってもらいました。
家族でステーションワゴンに荷物を積み込み、見知らぬ場所へ探索の旅に出発するのです。新しい土地を目にするときのワクワク感を、私は人生の早い時期に経験したと思います。
番組の企画で熱海に行くと聞いた時には、胸が躍りました。そのリゾート地のことを、自分があまり知らないと気づいたからです。新幹線の窓から見かけていただけでした。熱海には、今でも私の脳裏によぎる、他にはないものがあります。

熱海は、かつては賑わう行楽地でしたが、その後厳しい時代を経験しました。地元の人々には、明らかに底力があります。かえりみられなくなった場所にクリエイティブなアイデアを発揮し、廃墟のビルを映画のセットに活用したり、パチンコ店を居心地のよい今風のゲストハウスに変身させたりしています。

熱海を見回していて、私は、フランスのリヴィエラや、さらに言うとモナコ公国を連想していました。切り立った山々が美しい海に迫り、そのはざまの貴重な土地に根をはって高く伸びるビル。現代的で最先端の、シックなホテルもあります。地上12階の“ビーチエリア・バー”を、想像してみてください。デッキチェアや、ふかふかの白い砂もあるのです。至福です。

申し分のない日本的なサービスと、何もかも忘れさせてくれる癒しの温泉を備えた、伝統的な日本旅館もあります。

私がもっとも感動したのは、現代文明と自然の融合でした。南へ延びる岩がちの海岸線は、圧巻です…まるで重力に逆らうように、海から垂直に数百メートルの高さで切り立つ崖。その下には、本土有数の澄んだ海があります。もちろん、私の大好きなおいしい魚介類の宝庫です。

熱海は、間違いなく特別です。熱海は苦難を耐えて新たな時代に適応し、再び活気を取り戻しつつあります。それを楽しむのは私たちです。驚くほど利便性がよく、東京から新幹線でたった50分。豊かな自然、伝統的でシックなリゾート、温泉、そして…おっと、忘れるところでした、1年中花火が打ち上げられます!2018年は18回の予定で、雨天でも決行されます。これ以上を望む人がいるでしょうか?
皆さんにとって、新たに探索すべき、素晴らしい場所です!


「足利・栃木 思い受け継いで」

リポーター:キット・レイナ・バンビーノ

テレビのパーソナリティーと英語教師の仕事をしている私は、自分の視野を広げるべく、常に世界を探求しようと努力しています。日本に暮らしてまだ3年、毎日が発見の連続です。

今回の旅で、栃木県を訪れる機会をいただきました。到着した途端に温かな雰囲気を感じ、なぜここが日本人の住みたい場所ランキングの上位にあげられるのかがはっきりわかりました。地元の人たちは、仕事中の人も通りすがりの人も、まるで私が同じ栃木県民であるかのように本物の笑顔で挨拶してくれました。

私が最も感動したのは、どの場所も、伝統を守るためによく保護され維持されながら、一方で若い世代をひきつけるための新鮮味が加味されていることでした。あしかがフラワーパークでは、壮麗で印象的な春の花々を観光客や県民が楽しめるよう、スタッフが一年中こつこつと努力している姿に驚きました。足利市と栃木市以外でも、伝統の価値を守りつつ新しい時代のテイストを追い求めることの大切さを、地元の人たちが教えてくださいました。

自分だけの和菓子を作る体験もできました。職人さんの卓越した技と素晴らしいユーモアのセンスのおかげで、彼に教えてもらいたがる人が多い理由がわかりました。舞台裏を見学することで、和菓子の作り方だけでなく、なつかしさやワクワクする気持ちなど、職人さんが客に何を感じてほしいと思っているのかも伺うことができ、貴重な体験となりました。

日本で最も古い学校である足利学校への訪問は、とても刺激になりました。孔子の教えと、それが現代生活にどう反映されているかを学びました。歴史を知り、書写体験をしたことで、自分の行動や考えにもっと自覚を持たなければと改めて思いました。

旅の間、日本のおもてなし文化を大いに感じました。しかしこの旅は何よりも、全ての背後にストーリーがあることを私に思い起こさせてくれました。自分のバックグラウンドをより深く知らねば、という、新たな視点を得ることができました。

足利市と栃木市の人たちは、驚きと感動を感じる心を決して失わず、情熱と感謝をもって精一杯生きることを教えてくれました。皆さんがあまりにも愛情深く優しいので、この土地への愛着が私の中に生まれました。それに、地元の味「ポテト入り焼きそば」も、たまらないおいしさでした。

必ず、また行きます!


「阿賀野川 春」

リポーター:キット・パンコースト・ナガムラ

この春、私は、阿賀野川の流域を旅する機会を得ました。新潟の山々の間を流れる、アクアマリンのような青緑色の水が渦巻く大河です。阿賀野川が、いかに食(おいしいサクラマスが生息)や楽しみ(静かな流れの上を学生たちがボートで疾走)を生み出しているかを発見しました。そして川面から立ちのぼる霧が、地元のあらゆる伝説の発想の源ではないかと気づきました。その中にはキツネの伝説もあります。日本では、賢くて他のものに化ける動物と言われています。

キツネの一種と同じ「キット」という名を持つ私は、超自然的存在であるキツネの結婚を祝う年に一度の夜のページェント、“つがわ狐の嫁入り行列”の見物に胸が躍りました。
提灯に照らされて、キツネの乙女らや、護衛、サムライ、そしてキツネのメーキャップを施した多くの町民が随行する、霧につつまれたこの婚礼は、最も魅力的な日本の春の儀式のひとつです。

この旅では、創意と才能にあふれる鬼瓦職人との出会いや、珍しくておいしい山菜のありかを教えてくれた姉妹との出会い、そして夜明けの漁も体験しました。あの朝、私たちの網には何もかかりませんでしたが、ただ川の力強い流れに身をおいて、水辺の鳥のさえずりや近くの田んぼで鳴くカエルの声を聞けたこと、それだけで十分な収穫でした。阿賀野川では、昔ながらの物語と季節の循環が密接につながり、日常に伝説が潜む、そんな素顔の日本を感じることができます。私は、その思いを俳句に表現しました。

雪解川(ゆきげがわ)昔話をもう一度


「真壁 春を祝う」

リポーター:サラ・マクドナルド

私にとっての「ジャーニーズ・イン・ジャパン」最初の旅で、茨城県の真壁を訪れました。茨城は東京からほど近く、つくば市まで電車でわずか1時間ほどの距離です。それなのに、私はこれまでこの地域をたずねる機会が一度もありませんでした。

旅は、筑波山の麓から始まりました。日本の百名山のひとつですが、私はまず、その標高の低さと、傾斜の緩やかさに驚きました。平野と田んぼに囲まれた山の風景は、想像していたよりもずっとのどかなものでした。

しかし、広がる梅林や、苔むした斑の岩が点在する地面を歩き、二つそびえるうちの片方の峰に着いたとき、私の認識は一変しました。この山は関東平野に君臨する主ではなく、優しい守護者だったのです。この山が周辺地域の住民にこれほど愛される理由が分かってきました。

それから私は山を下り、真壁へと向かいました。かつての城下町で、道は敵の侵入を妨げるために迷路のようになっています。(ひな祭りの期間に配られる見どころの地図が、私の必須アイテムでした!)そしてどの路地にも、町の歴史を今も守り続けている蔵がたくさんあります。毎年春のひな祭りには、従来家の中に飾られていた数えきれないほどのひな人形たちが、これらの蔵を出て、大正、明治、江戸、そして平成の物語を語ります。真壁は、ひな人形と、色とりどりの飾りにあふれていました。会った人誰もが自らのひな人形を喜んで見せてくれて、彼らの仕事の話や町の歴史について語ってくださいました。

これまで私は、ひな祭りは非常に個人的なお祝いだと考えていました。蔵と言えば、しまいこまれた品々を連想しました。しかし真壁は、何よりもまずオープンです。古い町並みを歩いて数百年の物語に耳を傾けるよう、観光客をいざないます。まるで、こう呼びかけているかのように。「来年またいらっしゃい、そして、私たちの町の歴史に彩りを加えて!」


「八戸 春を待つ暮らし」

リポーター:キダ・マイケル

今回の旅は、東北の八戸に向かいました。山々と太平洋に挟まれた、青森県の街です。1年で最も寒い時期に行ったのですが、地元の人々がどのように冬を過ごしているかを目の当たりにして、皆さんと一緒に暖かく過ごすことができました。

八戸は、日本の同規模の他の都市とそう違わないように見えます。私は街なかと郊外の両方を訪れました。雪はほとんど降りませんでしたが、氷のような風と、身を刺すような寒さにさらされました。八戸の人々の昔の暮らしを知り、普段当然に思っている現代の快適さがいかにありがたいかを実感しました。スノーブーツを履き、ダウンジャケットを着て、その下に何枚も重ね着していたのに、それでも私の歯はガチガチと鳴っていたのです。数百年前の人々は、どうやってこの寒い時期をやり過ごしていたのでしょう?

その問いに導かれて見つけたのは、八戸の民家に足を踏み入れて感じた温もりでした。長い冬を生き抜く必要性から、八戸の人々は、忍耐強さと、助け合いの精神と、機知を養ってきました。その服装や、食べ物、そして道具の中には、耐え抜こうとする意志だけでなく、日常生活に彩りを加えてシンプルに楽しもうという心が垣間見えます。女性たちが作業着に施した刺繍や、年間を通した祭りの多さなどが、生活に美を加えようとする人々の姿を物語っているのです。そしてその美こそが、旅で出会った八戸の人々の家の中で感じられる温もりの源となっています。

出会った地元の人たちは、最初は少しシャイで、かしこまっています。しかしお互いのことを話して、彼らの伝統を知り、いったん打ち解けると、なごやかになります。そして会話に笑いがあふれる頃には、外の寒さをすっかり忘れ、頭からつま先まで温まっていたのです。そこで気づきました。これが八戸の人々の暮らし方なのだと。住民どうしのきずなや土地の歴史とのつながりが、こころ豊かな暮らしを生み出しているのです。


「高田 “がんぎ”のある暮らし」

リポーター:カイル・カード

今回の旅で、雪深い新潟県の上越市・高田を訪れることができ、心からうれしく思いました。駅周辺を見わたした感じでは、高田は静かで穏やかな、ごく普通の近代的な街に見えます。しかし少し歩いてみると、この趣ある地域の歴史と特色を見出すことができます。

冬、高田にはたくさんの雪が降ります。実のところ、数メートルも積もるのです。この雪から日常生活を守るため、ひさしを取り付けた歩道が導入されました。「がんぎ」と呼ばれるものです。低いひさしがトンネルのように歩道を覆い、どんなに雪が降っても支障なく、ふだん通りに店は営業できます。何キロにもおよぶこういった歩道は今も残っていますが、使われなくなったり、壊れたりして、少しずつ消えつつあります。

今、地元の人々も移住してきた人々も同様に、高田の伝統文化と街並みを守ろうとしています。新しい世代にがんぎの価値と、それが昔この地に住んでいた人々にどんな意味を持っていたかを伝えていくためです。

その意味とは、昔も今も「つながり」です。見わたす限り数キロメートル先まで続くがんぎは、地域社会に存在したつながりの象徴です。高田で孤立して暮らすことはほぼ不可能で、昔から、厳しい冬と豪雪に立ち向かうために地域社会は力を合わせなければなりませんでした。しかし今では技術の進歩のおかげで、人々の生活はより便利になり、力を合わせる必要は薄れています。その一方で、何かが失われてきているのです。

この旅を通して、地域社会の連続性と精神が少しずつ失われつつあると感じられました。がんぎとは、地域社会の概念がまさに形となって残っているものといえます。がんぎが今後も残されることによって、高田の文化が未来の世代のために守られ共有されるよう、そして、人と人の絆の大切さをこれからも思い出させてくれるようにと願うばかりです。


※過去6回放送分を掲載しています。
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