旅日記

「芸予諸島 海賊の海へ」

リポーター:村雨辰剛(むらさめ・たつまさ)

日本史のなかで、英雄物語やドラマの多い戦国時代は、私にとって常に興味の対象です。ほぼ網羅したと思っても、知らなかった話が常に次々と出てくるところがおもしろいのです。私の母国スウェーデンは、ヴァイキングの国。彼らは船で世界を旅し、歴史に深い足跡を残しました。驚いたことに、日本の戦国時代にも同じような生き方をした戦士たちがいると聞きました。時に海賊とも呼ばれる、村上一族です。

船上のサムライについてもっと知りたいと思った私は、鞄に荷物をつめて、瀬戸内海の美しい島々へと旅立ちました。目的地の砂浜に足を下ろした時には、この旅がどれほど私の世界を広げてくれることになるか思いもよりません。そして振り返ってみれば、この旅は驚くほど、スウェーデン人としてのルーツを私に思い出させてくれました。
広島と愛媛は、芸予諸島と、それらを結ぶ橋でつながっています。瀬戸内海に浮かぶこの魅力的な島々に、私の中でスウェーデンの列島の風景が懐かしくフラッシュバックしました。このような景色の中で、スウェーデンのヴァイキングと村上一族の双方が島々に拠点を置いて生きることを選択したのは、偶然ではないでしょう。

旅の始めに、この海賊戦士たちのことをもっとよく知ろうと、私は大島に最近オープンした資料館へ足を運び、また村上一族が彼らの領土や海を守るために強固な城を築いた地をあちこち訪れました。これらの“海城”は、それが立つ島とほぼ同じ大きさの要塞です。こんなに荒々しい海の中でどうやってこのような城を築いたのかと、私は驚嘆しました。

今回の旅で得たさまざまな経験の中で、最も思い出深いことのひとつは、戦国時代の船――敵も気づかぬほど素早く進路を妨げ、攻撃を仕掛けた「小早船」のレプリカを漕いだことです。櫂は大きくて重く、実際にこの船が使われていた時代の男性の平均よりも大柄な私でさえ、操船に苦労しました。しだいにペースがつかめてくると、実戦においてこの船がいかに効率と敏捷性に優れていたかが想像できました。

これは、幸運にも参加させていただいた今回の旅において、私が得た数多い貴重な経験のひとつにすぎません。何よりも地元の人々と知り合い、仲良くなって、彼らの豊かな文化遺産を共有できたのが、私にとって本当の喜びでした。何といっても彼らは、瀬戸内海のあの勇猛な村上水軍の末裔なのですから。


「北秋田 自然への祈り」

リポーター:キダ・マイケル

今回、私は、秋田県北部の山深くへと旅をしました。長い冬の間、ここの風景は雪の下に埋もれますが、春が来ると、山々や谷が生命と新たな息吹に満ちたみずみずしい緑に変わります。地元の人たちは、何世紀もの間この土地の中に豊かさを見出し、人と自然との深いかかわりを示す伝統を受け継いできました。

歴史的に、秋田はその位置と地形のため、日本の政治や文化の中心から遠く離れ、狩りや採集を行う人々が暮らしていました。山々と豊かな谷のはざまで、人は自然と常に強いつながりを保ち、今も多くの人が農業や漁業、林業で生計をたてています。

今回、私はマタギと呼ばれる伝統の狩人と一緒に山を歩くことができました。この旅の前、私はいくつかの理由で少しナーバスになっていました。まず秋田では、食料を求めるツキノワグマと出くわす可能性があります。どこへ行っても大概、クマへの注意を喚起する看板がかかっています。さらに私は動物愛好家で、狩猟に対して複雑な感情を持っています。

しかしマタギの、クマに対する大きな心遣いと敬意を学んでからは、心が楽になり、受け継ぐ人が減りつつある伝統の大切さもわかりました。獲物となる動物の霊のために捧げる祈りや、その死を無駄にしないようあますところなく利用するやり方には、動物たちへのマタギの敬意が表れています。それは以前読んだ、アメリカ先住民の文化についての事柄によく似ていました。それに加えて、秋田の猟師たちは未来の世代の繁栄のため、森の保全にも積極的に取り組んでいます。

水は、秋田の人々にとって活力の源であり、秋田県が日本有数の米どころである大きな理由です。山々から流れる澄み切った水が、たくさんの田畑を潤します。秋田の人たちは昔からこの命の源に頼っており、豊作をもたらす雨を求める夏祭りが、毎年行われます。祭りの間は、遠くからでも音が聞こえる巨大な太鼓が打ち鳴らさます。祭りが始まった時には太陽が照りつけ、空には雲ひとつありませんでした。しかし驚いたことに、演奏や踊りが終わるころには空が暗くなり、雨が降り出してきたのです。

秋田県を訪れて以来、自然に対する私の見方は変わりました。秋田の人たちは、人間と自然、動物、そして人間どうしがいかに緊密につながっているかを教えてくれました。生きる上で、私たちはこの世界から受け取るだけでなく、未来の世代に思いをはせながら感謝をこめてお返ししていなければなりません。環境との調和を通してこそ、平和と真の幸せを感じる暮らしができるのです。


「富士山 聖なる頂へ」

リポーター:ピーター・スコーヴ

富士山は、日本の最高峰かつ最も有名な山であるだけでなく、日本三霊山の1つです。
かつて、その頂の火口縁周辺は神仏のいる場所と信じられ、巡礼者たちは聖なる世界を目指し、自らの魂を浄化させるため、何週間、あるいは何か月にもわたって修行を行いました。山伏と呼ばれる修行者たちは,水垢離(冷たい水で身を清めること)で旅を始め、道中では、樹も生えないような場所の洞窟や岩場に身を置きました。彼らにとって、それは究極のスピリチュアルな旅でした。

私がかつて初めて富士山に登った時は、多くの人たちと同じように登りました。五合目までバスで行き、比較的楽なルートを歩いて頂上へのぼり、同じルートで下山しました。その登頂で真の達成感を得られなかった私は、もっと本格的に登るためにいつか必ず戻ってこようと誓ったのでした。その機会が、ようやく来たのです!

ガイドの上村絵美さんと一緒に、私は現代の巡礼に出ました。まずは海辺での簡単な水垢離です。山伏のための村山登山道の山開きの儀式を見学し、それから、緑の木々、やわらかな緑の苔むす霧深い森、そして複雑な形の黒い溶岩の間を登っていきました。
ようやく頂上が近づいてくると、絵美さんが、山伏は「1…2…1…2…」と数えながら歩を進めることで、心の中を無にし、自らの欲求や願望を捨て去ったのだと教えてくれました。

実際、私の旅はそれほど苛酷ではなかったし、大自然や眺望に気を取られることもたびたびでした。しかし私は、自分が数多くの山伏たちの足跡をたどっているのだということを常に心に留めるようつとめました。そして今回の登山によって、富士山の歴史的かつ聖なる一面に、少し近づけたような気がしました。


「山形・飛島 恵みとともに」

リポーター:ジョン・ムーア

島への旅は、いつもワクワクします。まるで初対面同士のデートのようです。行先の様子は未知で、船から降りるまで分かりません。酒田港から素晴らしい波の上を進むと、ほどなく、平べったい美しい島が見えてきました。

飛島は、「北」と「南」が出合うことで、動植物、文化、そして地域性が見事に交差している奇跡の島です。沖縄から毎年繁殖のために飛来する1万羽以上のウミネコの巨大な集団が、巨大な岩山の上に騒がしく体を寄せ合っています。私たちは、早朝の漁の獲物の残りを与えてみました。ワオ!ヒッチコックの映画の通り。腹をすかせた鳥の群れは、恐ろしくもあります。

今も自分で取った種を植えて野菜を育てているおばあさんの自家菜園に、私は腰をかけました。彼女はそれまでの人生を語り、笑い、それからふたりで一緒に種を植えました。岩場の海岸を歩きながら漁師さんから聞いた、ロシア人船員との海上での物々交換の話は、ほほえましいものでした。潮が引いた海岸に現れる、古代の色をした驚くべき彫刻のような岩々。つねに表情を変える海――それでも今も数限りない種類のおいしい海藻や、味わい深く食べられるマグロなどの魚を抱いてうねる海――は、昼夜を通して、踊り、きらめいていました。

私が泊まった旅館の食事は、今まで日本の旅で味わった中で最高のものでした。この旅館は飛島にUターン・Iターンした若者グループの取り組みによって経営が引き継がれており、彼らは島の郷土料理を継承し、日常の食卓に乗せ続けたいと願っています。トビシマカンゾウの花びらの塩漬けが彩る、島固有の海藻。これは、飛島でしか食べられません。

何と素晴らしい体験でしょう。ひとりの老漁師さんが船で、海上に露出する小さな岩の島々まで連れていってくれました。環太平洋火山帯の只中にある海は、天国のように静かで美しいものでした。中に秘密をもつ島の神の洞窟も、また同様でした。島の内陸部にある古代の森をそぞろ歩いたり、海岸にある船乗りのための神社に驚いたり。そしてそこにはいつも、日暮れのカフェタイムをゆっくりと楽しめる時間がありました。

飛島は、特別な美しさを持った、穏やかな土地です。自然の奇跡の宝庫であり、一度訪れたら決して心から離れないふるさとです。


「津軽 相撲にかける」

リポーター:B.T

青森は、私の大好きな日本の1つです。この国に来て最初の5年半、私は青森のすぐ南にある岩手県に住んでいました。青森は新鮮な魚介類と、世界的に有名な祭りと、厳しい冬で知られ、訪れるたびに心ひかれる新たな発見があります。
今回の青森への旅では、津軽半島の相撲を知ることができました。この北の地の相撲の伝統を垣間見られて、本当によかったです。かつて相撲が祭りの儀式の一部だったことも、地元で人気の娯楽だったことも初めて知りました。

それまで私がテレビで見ていたのは、少年たちが家を出て相撲部屋に入り、体重を増やすため大量に食べ続ける、という物語でした。力士の生活とは強くなって成功するか、強くなれずにやめるかのどちらかであり、その中間という妥協は許されない、という印象でした。
だから、相撲には別の側面もあると知り、本当にうれしく思いました。相撲とは、テレビで放送される大相撲のような世界だけではなく、学校の生徒にとっては究極の課外活動であり、土俵を持たない家族たちにとっては日常生活に欠かせない一部となっているのです。そして体験してみた私にとっては、この1年で最も効いた運動となりました。

焼きイカ通りも、楽しい場所でした。地元の漁師さんたちが、収穫物を天日干しして売っています。食の冒険家を自負する私は、干した魚やイカを、ビーフジャーキーのお手頃な代用品として喜んでムシャムシャ食べました。周囲のハエの群れにはちょっと辟易しましたが、味見をあきらめるには及びません。ハエがいてもいなくても生干しは美味だし、店主さんたちは親切で愉快な人たちでした。

五所川原にある立佞武多の館も訪れました。私は、言葉で表せないほど立佞武多祭りが大好きなのです。数年前に地元の友達と一緒に参加して、すっかりハートを射抜かれてしまいました。
あの山車に、えもいわれぬ何かがあるのです…高さ、光、色彩、筆で書かれた墨の質感…どれとは決められません、とにかく私は山車の全てに夢中です。お囃子の音に囲まれながら佞武多の顔を見上げていると、ハッピーなおとぎの世界で巨人と踊っているような気分になります。いつか世界中の人たちがここを訪れ、ご自分の目で間近に見上げられるといいなと思います。


「日光 建築探訪」

リポーター:ジェームズ・ランビアーシ

日光で訪ねた数多くの素晴らしい建物や名所について思いを巡らすと、建築の役割の重要性をますます強く確信します。建築物は、単に雨風をしのぐだけのものではありません。
文化や時代の結晶であり、祖先の願いを我々に伝えてくれるものです。

たとえば東照宮は、ただ徳川将軍家の初代・家康の墓所にとどまりません。それは平和と繁栄の世で人間が建築や技術を通じてなし得る自己表現の、輝かしい成果を我々に見せてくれるものです。建築物そのものが、平和を守ることの大切さを、遠い過去から未来の人類へと伝えているのです。

つい100年前も、日光は平和の象徴でした。20世紀初頭、外国の大使らがその美しい自然に魅了されました。金谷ホテルは、国際色豊かな顧客に向けて日光を開いた先駆けで、夏のあいだ中禅寺湖畔に避暑に来る上流階級の外国人らを歓迎しました。第二次世界大戦の惨禍の数年前という想像を絶する時代、日光にはベル・エポックがあり、英国人・アメリカ人・イタリア人・ドイツ人、そして日本人がともに湖畔につどい、ヨットレースに興じていました。

日光は我々に歴史を見せてくれるだけでなく、自然の美しさを愛でる人の心は不変であることを明かしてくれます。皆さんが次に日光を訪れるとき、皆さんは過去を知るだけでなく、その自然と文化の遺産への敬意を未来の世代へつなぐ架け橋となることでしょう。


※過去6回放送分を掲載しています。
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